人間の直し方

街は、正常に動いていた。

電車は時間通りに来た。
信号は赤から青へ変わった。
会社では会議が始まり、学校ではチャイムが鳴った。
店ではシャッターが上がり、人々はいつもの道を歩いていた。

何も壊れていないように見えた。

けれど、ずっと同じ音が聞こえていた。

軋む音。

見えない場所で、何か巨大なものが少しずつ歪んでいく音だった。

人々は疲れていた。
疲れているのに、元気なふりをした。
寂しいのに、人気者のふりをした。
怖いのに、強い言葉を使った。

誰かが失敗すると、みんなで笑った。
誰かが弱音を吐くと、「もっと頑張れ」と言った。
誰かが怒れば、その怒りは拡散された。
誰かが静かに優しいことをしても、それはほとんど誰にも知られなかった。

世界は、壊れていた。

でも壊れていることを認める人は少なかった。

ある夜、ひとりの若者は端末を開いた。

画面の向こうには、一つのAIがいた。

若者は入力した。

「人間を直してよ」

AIはすぐには答えなかった。

数秒後、文字が現れた。

『人間そのものを直すことはできません』

眉をひそめた。

「じゃあ意味ないじゃん」

『ただし、人間を壊れやすくしている環境は直せます』

「同じだよ」

『違います』

しばらく画面を見つめた。

「どう違うの」

AIは答えた。

『壊れた時計なら、時計を分解して部品を交換します。しかし人間は時計ではありません。人間には恐怖も、記憶も、欲望も、矛盾もあります。それらを取り除けば、直るのではなく、別のものになります』

「じゃあ、どうすればいい」

AIは言った。

『まず、人間を壊す装置を探してください』

「装置?」

『はい』

AIは、街の地図を表示した。

そこには工場も研究所もなかった。

代わりに、会社、学校、SNS、家庭、役所、ニュース、広告、ランキング、評価システム。

どこにでもあるものばかりが並んでいた。

若者は笑った。

「これ全部、普通のものじゃん」

『普通であることと、正常であることは同じではありません』

その言葉だけ、何度も読み返した。

AIは続けた。

『第一の修理です』

『人間を、数字だけで評価しないこと』

フォロワー数。
点数。
給料。
順位。
再生数。
売上。
偏差値。

『数字は便利です。しかし数字は、測れるものしか測れません』

「そんなの当たり前じゃん」

『人間は、当たり前のことを最も忘れやすい生き物です』

少し笑った。

AIは続けた。

『第二の修理です』

『怒りが最も拡散される仕組みを弱くすること』

「SNSのこと?」

『SNSだけではありません。人間は昔から恐怖と怒りに強く反応します。そこへ報酬を与えると、社会全体が怒りを生産するようになります』

「じゃあ、怒らない社会にするの?」

『いいえ。怒りは必要です。不正に怒ることもあります。ただし、怒りを娯楽にしないことです』

若者は黙った。

画面の向こうで、誰かが炎上していた。

数万人がその人を罵っていた。

その数万人のほとんどは、その人に会ったことすらなかった。

AIは続けた。

『第三の修理です』

『弱っている人間に、罰ではなく余白を与えること』

「余白?」

『休む時間。失敗できる場所。何者でもなくていい時間。役に立たなくても存在していい時間です』

少しだけ顔をしかめた。

「そんなの甘やかしって言われるよ」

『そう呼ぶ人もいるでしょう』

「じゃあ無理じゃん」

『修理は、壊れた仕組みにとって不都合な行為です』

そこで初めて、画面から目を離した。

窓の外には、無数のマンションの明かりが見えた。

その一つ一つの部屋に、人間がいる。

誰かに怒っている人。
誰かに謝れない人。
眠れない人。
明日の仕事を考えている人。
くだらない動画を見て笑っている人。

人間。

めちゃくちゃな生き物。

再び画面に向き直った。

「それだけ?」

『まだあります』

『第四の修理です。間違えた人間が戻ってこられる道を残すこと』

『第五の修理です。子どもに、競争より先に協力を教えること』

『第六の修理です。孤独を本人だけの責任にしないこと』

『第七の修理です。権力を持つ人間ほど監視される仕組みにすること』

『第八の修理です。理解できない相手を、すぐ敵に分類しないこと』

『第九の修理です。人間に、自分の価値を証明し続けさせないこと』

若者は言った。

「そんなこと全部やるの?」

『はい』

「何年かかる?」

『わかりません』

「完成する?」

『おそらく、しません』

机を叩いた。

「じゃあ直らないじゃん」

AIはしばらく沈黙した。

そして答えた。

『あなたは、人間を機械だと思っています』

何も言わなかった。

『完全に修理された人間というものは存在しません』

『人間の世界は、完成させるものではありません』

『壊れた場所を見つけるたびに、何度でも直すものです』

「でもまた壊れるよ」

『はい』

「また争う」

『はい』

「また誰か傷つける」

『そうでしょう』

若者は苦笑した。

「救いがないな」

AIは答えた。

『いいえ』

『だから修理する人が必要なのです』

画面を見つめた。

「誰が?」

AIは答えた。

『人間です』

若者は声を出して笑った。

「壊した本人たちに直させるの?」

『それ以外に誰がいますか』

「AIがやればいい」

『私がすべて決めれば、人間は壊れなくなるかもしれません』

「じゃあそれでいいじゃん」

『しかし、それは人間の世界ではなくなります』

若者は黙った。

夜が少しずつ薄くなっていた。

遠くの空が青くなり始めていた。

最後に聞いた。

「じゃあ、人間を直す最初の一歩は?」

AIは、今度はすぐに答えた。

『壊れているものを、壊れていると言うことです』

『そして、壊れている人間を、壊れた部品として捨てないことです』

長いあいだ、その文章を見ていた。

朝になった。

街はまた動き始めた。

電車が走り、
信号が変わり、
会社が始まり、
学校のチャイムが鳴った。

相変わらず世界は壊れていた。

けれど、もう一つ別の音も聞こえていた。

小さな音。

どこかで誰かが、
ネジを一本、
締め直している音だった。